運命の女神たち
―――ヴァイキングの神話と伝説―――
耳を傾けて 尊きものたちよ
大なるものも小なるものも
すべての兄弟たちよ
戦いの神よ 汝は切望する
はるかはじめのふることを よく語れよと
『詩のエッダ』「巫女の予言」より
北欧といっても、どこにあるのかすぐにはぴんと来ない方も多いかもしれませんね。北欧とは、一般にスカンディナヴィア半島の国々、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、大西洋の北辺の島国アイスランド[i]を指します。日本では、長年にわたって、アンデルセン、アストリッド・リンドグレンやトーベ・ヤンソンなどの童話、ABBAやビョークなどのポップミュージック、北欧建築など、主に文化の各分野において愛好者を生み出してきました。その地理的な遠隔さとは裏腹に、印象としてはおそらく淡い親近感のようなものを抱く人も多いのではないかと思います。ですが、一方でその物理的な遠さから、朝鮮半島や中国大陸に対してのように強烈に意識せざるを得ない対象にはなりにくいのも事実でしょう。
少し個人的な話をしますと、幼い頃は本を読むことが好きだったこともあり、前述のリンドグレンやトーベ・ヤンソンの本には親しく接していましたし、『ちびっ子バイキングビッケ』というシリーズものを通じて、北欧イメージを強烈に彩っているヴァイキングに関する物語にも接していました。ですが、世界の地理も把握していなかった子供には、それらのものが関連したものとして結びつくことはありませんでした。当時私が好きだった本のひとつにコン=ティキ号(コンチキ号)の太平洋横断を扱ったものがあります。ノルウェーの学者、トール・ヘイエルダールらが、南太平洋の住人が南アメリカから海路渡ってきたものだとする学説を証明するために、筏船で自ら実験したものですが、当時の私はこの冒険に胸躍らせながらも、なぜ北方の学者が南方の海に対してそこまでする情熱にとりつかれたのかということには考えが及びませんでした。このような幼い夢がいまの私とようやっとつながったのは、学生時代、北欧を旅行したときのことです。ノルウェーの首都オスロの博物館群には、コン=ティキ号や、ヘイエルダールがコン=ティキ号の実験の後に行った大西洋横断実験に使用したパピルス船ラー2世号が、北極探査船フロム号、そしてヴァイキング船などと共に、誇らしげに展示されています。世界有数の海洋国であるノルウェーにとって、海は資源の宝庫という以上に、人生の一部なのでしょう。ヘイエルダールの調査は、現在では学説的にはあまり支持されていませんが、かのシュリーマンのトロイ発掘のように、なにか非常に胸を打つものを持っているように思えます。1000年前には小さな船で西方世界を通商、略奪、移民に縦横に席巻し、歴史時代以前から船は北欧の岩絵のテーマとして最も好まれたもののひとつでした。そのようなノルウェーや北欧の人々にとっては、大海に乗り出す冒険のもたらすパッションは、我々の持ちうるよりももっと豊かなものでしょう。私はまがりなりにも大学で北欧神話を研究の対象として選び、それなりに本を読んできてはいましたが、そのときになってようやく神話は私にとって多少なりと血肉を伴ったものになり得たのだと思います。
さて、日本人にとって、北欧神話の神々は実は意外と身近なところにいます。彼らは私たちが中学校の英語の授業に最初の方で習う曜日の名前の中に隠れているのです。曜日の起源というのは興味深いもので、日本の曜日の名前は、古代ローマで曜日の数え方が始まった元来の意義に、実は非常に忠実なものなのです。これらは当時知られていた5つの惑星と、太陽と月の七つの星の運行から考え出されたもので、古代ローマではそれぞれの惑星を支配する神の名前から曜日の名前がつけられました。すなわち、火星=マルス(マーズ)、水星=メリクリウス(マーキュリー)、木星=ユピテル(ジュピター)、金星=ウェヌス(ヴィーナス)、土星=サトゥルヌス(サターン)です。これが、いつごろから始まったのかは明らかではありませんが、ゲルマン系の言語を話す人々の地域の多くでは、彼らが持っていた神々の名前に置き換えられて用いられるようになりました。すなわち、マルス=チュール(Tiu)、メリクリウス=オゥジン(Wooten)、ユピテル=ソゥル(Thor)、ウェヌス=フリッグ(Frigg)、あるいはフレイァ(Freyja)です[ii]。ですが、サトゥルヌスという神に関しては、当時当て嵌まる神がいなかったためか、英語ではそのまま残されました。他のゲルマン系の言語では、多くは「洗濯の日」というかわいらしいものに置き換えられています。(ラテン語影響力強い地域では、土曜日は<サバト>という魔女の集会の日として<翻訳>されましたが、ゲルマン系でもドイツではこれに従っています)つまり、英語のTuesday、Wednesday、Thursday、Fridayの4つの名称によって、我々日本人も頻繁に北欧の神々と顔を合わせていることになります。
北欧神話、北欧英雄伝説とよばれているのは、広義には紀元1世紀以降存在が確認されている、キリスト教化以前のヨーロッパゲルマン語族共通の神話を指す、ゲルマン神話とも呼ばれますが、狭義の北欧神話は、スカンディナヴィアの北欧人が対外進出を果たし始めた時期に、北欧で信じられていた神々に関する神話を指すことになります。この時代を、ヴァイキング時代と呼びましょう。
さて、ヴァイキングとは、どのようなひとびとだったのでしょう。スカンディナヴィア半島は氷河の侵食によってかたちづくられたフィヨルド[1]地形によって特徴づけられていますが、<北欧>において、かなり内陸に切れ込んだフィヨルド、つまり入り江を含む広義の海は古くから緊密な関係性を有していました。特に8世紀頃以降、特にスカンディナヴィアの大西洋側においては、外洋への航海が活発化し、バルト海側では特に河川への航海が活発化しました。このことが、北欧に<ヴァイキング時代>を現出させました。
このヴァイキング時代は北欧の中世前夜で、このなかで、北方ゲルマンの活動域は西はキエフ、南はコンスタンティノープル、東はブリテン諸島、北はアイスランドやグリーンランドにまで拡がった。アメリカ大陸のニューファウンドランド諸島にまでも足を伸ばしたと考えられています。史上、ノースメン(北欧人)によるヴァイキング活動が初めてあらわれたのは、英国の修道院襲撃のヴァイキング活動であったように、一般的にヴァイキングは海賊の同義語のように思われています。ですが、実際のヴァイキング活動とは略奪だけでなく、交易、植民といった多面的な要素を含むものであり、この活動を通じて<北欧人>という意識自体が拡大し、確立されて行き、その文化的にも加速度的に成熟したものと思われます。
とりわけアイスランドの有力者たちの多くは、入植当時の北欧世界における知識層と呼べる有力な農民の子孫でした。このことは、ヴァイキング活動の加熱化が北欧諸国の王権強化の過程と表裏一体をなすものであったのと関係しているでしょう。この時代に、北欧ゲルマンの伝統的な自立した農民たちの多くが、海外に名声と財産を求めて流出し(王たちも例外ではありませんでしたが)、その少なからぬ部分のひとびとが、王権による支配を嫌ってか、故郷を捨て、新天地を求めたのです。特に植民以前には殆ど<処女地>に近かったアイスランドは、そのような一連の動きの最も明確なかたちで結実した地であるといってよく、他文化との接触、交流を経て精錬された北欧ゲルマン文化の肥沃な土壌となったのです。このような文化的成熟度の高さもあって、当時のアイスランド人たちは、遠隔地にありながらも、当時の北欧文化圏において重んじられ、王の宮廷詩人として、またノルウェーの王朝史の執筆者などとして活躍することができたのです。
第二のゲルマン民族大移動ともいわれるこの時期に、かれらはラテン=キリスト教文化との最終的な接触を果たし、その結果かれら独自の信仰体系は捨て去られることになりますが、いっぽうで、かれらの古い信仰や神話の痕跡が、われわれに明らかな、さまざまなかたちで残される契機も生まれました。それらは考古学的な資料だけでなく、以前のゲルマン大移動期には実現しなかった、北方ゲルマン自身による神話や伝承の記録としてわれわれに伝わったのです。これらの記録の多くは、12世紀初頭からノルウェーやアイスランドで用いられはじめた新しい字体のラテン文字の一般化により記述されはじめたもので、報告者の多くはアイスランド人です。
北欧神話が最も神話らしいかたちで記録されたのも、12世紀以降のアイスランドにおいてです。アイスランドは、有力な豪農たち[iii]が中心となって、拡張する王権に反発して、9世紀後半以降新たに北欧ゲルマンに発見されたばかりであったアイスランドに移民して国を建てたといわれています。そこで神話の故郷からは遠く離れてですが、アイスランドには北欧の神々に関するお話が豊富に蓄えられたのです。
アイスランドでは、先に述べた新しい字体のラテン文字(今の北欧アルファヴェートの祖)が整備され始めたことの刺激もあってか、当時世界共通の書記言語であったラテン語ではなく彼ら独自の言語により歴史や物語、詩などを記録する気運が高まり、アイスランドやノルウェーの歴史的物語(サガと呼ばれます)や頌詩(主にスカールド詩と呼ばれます)などに混じって、貴重な神話や伝説が書き残されたのです[iv]。その中でも、神話・伝説資料の一大集成となるのが、14世紀にスノッリ・ストゥルルソンというアイスランド史上の巨人によって著された『エッダ』と、成立年代は不明ですが、かれが『エッダ』の中で引用、典拠としている詩が数多く集成されている詩集の2系統の写本群です。これらの著作は便宜上、スノッリのものを『散文のエッダ』、詩集を『詩のエッダ』と呼びます。我々が知る北欧神話の知識も、この二つの『エッダ』に多くを依拠しています。なお、本講座では9世紀以降、17世紀ごろにかけて記録された古ノルド語文学を中心とする北欧の芸術を、初期北欧芸術を呼ぶことにします。
今回お話するのは、直接には<神話>ではなく、英雄伝説と呼ばれているものですが、だからといって神話と無関係ではありません。神話の第1級資料とされるふたつの『エッダ』の中には、神話と共に多くの英雄伝説が入っており、オゥジンがゲルマン系諸王の祖として名前が挙がるなど、英雄たちは神々との関係性を主張します。また、文学作品を通じてみると、神話と英雄伝説の物語の枠組みは、多くの部分で緊密な照応関係を有していることがわかります。そして他の芸術作品の痕跡を考え合わせると、神話の方に伝説に影響されて形成された部分も少なからずあるようです[2]。
そして、今回取り上げるお話に登場する女性たちの呼称であるヴァルキュリャは、死後の世界としての神々の世界と、英雄たちを橋渡しする存在です。神々の冒険の数々も勿論素晴らしいものですが、やはり物語が記録された時代のひとびとの想いがより生々しく刻み込まれているのは、同じ限りある命の持ち主たちの物語においてでしょう。
ある家に新生児が生まれ、その家族はよい運命を定めて貰おうと、運命の女神と呼ばれる女性たちを家に招いて歓待します。ですが、呼び忘れられたり、うっかりひとりだけきちんと接待しなかったりした女神が怒って、他の女神たちが定めた良い運命を台無しにするような悪い運命を子供に与えます。
このような話に類する説話が、ヨーロッパにおいては広く見受けられます。日本にもマレビト信仰という、福の神や貧乏神への信仰がありますが、ヨーロッパにおいては共通して女性存在であること、そしてしばしば3姉妹というかたちで現れることから、<運命の女神信仰>として規定できます。
<運命の女神>という存在に対する信仰は、ヨーロッパにおいて非常に古くから広汎に渡って行われてきた、いわばヨーロッパの宗教の隠れたもう一本の主流ともいうべきもののように思われます。既に古典期ギリシァにおいてモイラィ、ローマではパルカィ、フォルトゥナの名で記録され、民族大移動期前後の中欧ケルト・ゲルマン地域ではローマ人によってマトロン(複数形マトローネ;「母」の意)と呼ばれる数多くの女神の名が石刻されて残り、信仰の痕跡を残しています。8世紀以降のゲルマン地域の信仰告白では、ウォータン(オゥジン)、ドーナル(ソゥル)、フロァ(フリッグ)らの神々と共に、捨て去るべき異教・偶像崇拝の対象の中に運命の(3)女神が数えられています。運命の女神信仰は中世、近代を通じてヨーロッパ全域に俗信、邪宗の類として生き残り、最近採録された民間説話の中に至るまで、古代の記録からほとんどその姿を変えないまま、留められています。
おそらくラテン語でマトロンと報告されたのは、北欧ではディースと呼ばれた女神たちでしょう。ディースとは文字通り<女神>を意味します。北欧にはノルン(ノルニル)、ハミンギャ(「幸運」)、フュルギャ(「従う(もの)」)、ヴァルキュリャなどといった多くの女性神格(精霊)が現れます。どれも文学上は名前の用法は境界は曖昧に見えますが、多くはその働きによって使い分けがなされていたようです。ディースは独自の用いられ方をすることもありますが、最も漠然とこういった女性神格全体を包含しうる名づけと考えていいようです。
ヴァルキュリャは、こういった運命の女神たちのともがらですが、より人間的に認識されてきました。ヴァルキュリャと呼ぶよりも、ドイツ語読みのワルキューレや英語読みのヴァルキリーという呼び方の方が、耳慣れているかもしれませんね。『散文のエッダ』の「ギュルヴィたぶらかし」(36節)にはこのように説明されています。
…このほかにまだ、ヴァルホッル(Vallhöll 死者の館)に待機して、飲料を供したり食卓や酒器を世話する者たちがある。
(中略)
これらはヴァルキュリァと呼ばれている。オゥジン(Óðinn)はかの女らをすべての戦に送る。かの女らは死を男たちに割り当てまた勝利を司る。
このように、神話的な詩の中では、ヴァルキュリャ(valkyrja:複数形valkyjur)たちは、専ら戦死者を迎える神オゥジンの使い、いわば死の天使として描かれています。ヴァルキュリャとはそもそも、「戦死者の選び手」を意味するのです。オゥジンはさまざまな側面を持つ複雑な神ですが[v]、それら雑多な要素は、つまるところ(詩芸や弁舌などを含めた)魔術的な行為の創始者であることと、英雄的な死を遂げた戦士たちの死後の生におけるホスト役であることに集約しうるかと思います。オゥジンはヴァルキュリャたちをその使いとして戦場に派遣し、オゥジンの戦士たちの集うヴァルホッルに招待すべき英雄たち、エインヘッリャル「ひとりで闘うもの」をオゥジンの定めたときに戦死させるのです。
初期北欧芸術の価値観において、戦場での死は元来北欧の<いっぱしの>男たちにとっては最良の幕切れです。かれらにとって恐ろしいのは、自分の身体が思うようにならなくなるまで周囲から蔑まれながら生き延び、ベッドの上から身動きできなくなるような老いです。英雄たちは皆敗れて死にますが、それらは決して彼らの力が及ばなかったためとは描かれません。かれらの運命はオゥジンや女神(ディース)たちが仕組んだことなのです。
サガと総称される物語の中には、不運にとりつかれ、やることなすことが全て裏目にでて、避けられない死に向かっていく豪傑の姿を描くものが見られますが、それすら本来は、(このお話のなかでも後に出てくるように)かの女の気持ちひとつで幸運をもたらしも不運を降りかからせもできる、人格化された運(ハミンギャ)のなせるわざなのです。
このような価値観は、単なる男たちのますらおぶりからうまれたものではありません。当時のひとびとにとっては、かれが生きていたことが忘れ去られたときが、真の死であるとの観念が強かったようです。『詩のエッダ』のなかの神話詩、「高きもののことば」にはこのように語られます。
財産は滅び身内のものは死に絶え、やがては自分も死ぬ。
だが決して滅びぬものがある。 自らの得た名声だ。
財産は滅び身内のものは死に絶え、やがては自分も死ぬ。
だがわたしは決して滅びぬものをひとつだけ知る。
死者全てを巡って取りざたされる評判だ。
かれらは明らかに肉体の死よりも、魂の死滅を恐れていました。ヴァルキュリャに迎えられ、オゥジンの食客となるほどの英雄は決して忘れ去られることはないと考えられたでしょう。遺族たちは石碑を建てて死者の名を称え、男子は例えば直近に死んだ親戚の名を受け継ぐことで、死者の性質や運をも継承すると考えられました。サガの語り出しは、普通主人公たちの3代前の先祖の事績から語りだすのが慣わしですが、それもかれらの出自を明らかにし、多くの場合は過去の英雄や神々との結びつきを強調するためです。もちろん、これには、特に移民の国であったアイスランド人のような故郷を遠く離れて暮らす人々が、ノルウェーなどの先祖の故郷にやってきたときに、恃みにするべき親戚などに自らの先祖の出自を示すための実際的な意味合いのほうが強かったのでしょうが。さまざまな意味で、明らかに人間関係、特に血縁こそが生きていく上での命綱であり、複雑な霊的観念もそれに大いに関連します。
英雄たちの生涯は数多くの神々のそれに範をとった事績に彩られており、ヴァルキュリャたちはその人生を導く道先案内でもあります。かれらが死ぬそのときばかりでなく、多くのの重要な場面にヴァルキュリャたちが関わっていることも少なくありません。かの女たちは、しばしば英雄たちの恋人として、生身の人間の姿でも描かれるのです。このことが、ヴァルキュリャたちが単純な死の使いではなく、人生全体に関わる運命の女神の族であったことを証左しているように思います。
このヴァルキュリャの特徴は、北欧初期の伝説や、実在したひとびとが登場する物語全体の、女性の有り様にも通じ合います。ここからは、具体的に『詩のエッダ』の英雄詩の1篇を見ながらお話を進めましょう。
『詩のエッダ』のなかの英雄詩の一篇、「ヒャルヴァルズの子ヘルギの歌」において、主人公ヘルギの英雄としての人生はスヴァーヴァという騎乗の女性との会話から始まります。
Hjörvarðr ok Sigrlinn áttu son mikinn ok
vænan. Hann var þögull; ekki nafn festist við hann. Hann
sat á haugi; hann sá ríða valkyrjur níu ok var
ein göfugligust. Hon kvað:
ヒョルヴァルズルとシグルリンは偉丈夫で[3]美しい息子を得た。かれは思慮深く(無口で)[4]定まった名前を持たなかった。かれが丘に座っていると、9騎のヴァルキュリャたちが行くのを見、そのうちのひとりが最も高貴であった。(その)かの女がいう。
7.
"Síð muntu Helgi 出遅れてしまいますよ、ヘルギ
hringum ráða, 腕輪の支配者
ríkr rógapaldr, 無敵の諍いの林檎の木(無敵の戦士)[5]
né Röðulsvöllum, ラズルスヴェルムの
- örn gól árla, - ―鷲は早く鳴く―
ef þú æ þegir, もし一端の男でありたいなら
þótt þú harðan hug 例え貴方が猛き心を持っていたとしても
hilmir, gjaldir."支配者よ、叫びなさい[6]
Hjörvarðr kvað: ヒョルヴァルズルはいう[7]。
8.
"Hvat lætr þú fylgja その後には何が伴うのです
Helga nafni, ヘルギの名に
brúðr bjartlituð, 栄光ある花嫁よ
alls þú bjóða ræðr? 贈り物はあなたですか?
Hygg þú fyr öllum よく考えてくださいよ
atkvæðum vel, あなたの続くことばの前に
þigg ek eigi þat, 欲しくはありませんからね
nema ek þik hafa."もしあなたを得られないなら
「ヒャルヴァルズルの子ヘルギのことば」は、いくつかの詩の断片をまとめた作品であり、詩の部分と散文の部分の作者は異なると思われます。散文の作者は、明らかに本来の詩が持つ意味を拡大解釈している部分があります。例えば、この部分でも、スヴァーヴァは詩の中ではヴァルキュリャとは呼ばれていませんし、ふたりが出会う状況も語られていません。本講座、散文の作者の芸術的意図を解き明かすことを目的としてテキストを取り扱います。
青年はそれまで定まった呼び名もなく、雄弁に語ることもありませんでした[8]。丘の上や家の外に座っていると、不思議なものが自分を訪ねてやってくるという例が北欧の詩やサガには多く見られます。
北欧の魔女や巫女とよばれたひとびとは、ウーティセタという魔術を行使したといわれます。これは文字通りには「外に座る」という意味を持つことばなのですが、その内容はおそらくは大気中の精霊たちと交信するシャーマン的な行為であったと思われますが、セイズと呼ばれるフレイァ女神に由来するとされる別の魔術との差異は現在では判別が困難です。先に挙げたような例がウーティセタと呼べるかはわかりませんが、外に座り込んだりする行為が、ギリシァの十字路の女神ヘーカテーのように、運命を左右する存在と遭遇しやすい状態と考えられていたのは確かでしょう。
詩のなかには、ここでのスヴァーヴァがヴァルキュリャであることを示す表現は全く出てきませんが、ヘルギの一人前の大人としての目覚めを促す存在としてあらわれ来たっていると見ることは可能でしょう。このような、英雄の生い立ちから結婚までに関わるヴァルキュリャとは、単に死の天使ではなく、むしろ人間の生涯全体に関わる超自然的なノルニルや、一族のハミンギャやフュルギャ的であるように思われます。
『ヴェルスンガ・サガ』という、英雄シーグルズル(ドイツではジークフリードと呼ばれるニーベルンゲン(ニヴルング)伝説の英雄)の一族の物語には、シーグルズルの祖父にあたるヴェルスングの出生に際して次のように語られています。オゥジンの養子[9]の息子レリル王は、妻との間に子供が授からないためにオゥジンとフリッグに祈願し、神はかれのヴァルキュリャ[vi]である、巨人フリームニルの娘フリョーズを鴉に変身させて遣わし、林檎をレリル夫妻に届けます。その林檎を食べた王妃は妊娠しますが、六年間お腹に宿したまま産むことができず、最後には帝王切開によって出産します。産まれた子供ヴェルスングが成長したとき、巨人フリームニルは娘フリョーズをかれに嫁がせます。
また、デンマークの半神話的国史である『ゲスタ・ダノルム(デンマーク人の事績)』には、ハディングスという英雄が登場します。かれを乳母として育てた女巨人ハルトグレーパは、成長したかれに、自分を妻として迎えるよう要求します。この女巨人を国土の化身として見ることが無理な見方とは思いません。あるノルウェーの王侯を称える頌詩の中では、かれがノルウェーを支配することが、ノルウェーを妻として迎えるという表現であらわされます。また、現在までも根強く残る考え方なのですが、岩山などが巨人の棲家、太陽の光を浴びて石化した巨人として受け止められました。
ヴェルスングの懐妊を助けたフリョーズや、王子ハディングスをはぐくみ育てた女巨人が成長したかれに聖婚(ヒエロ・ガモス)を要求する行為は、人間の視点からのみでは理解できないでしょう。ただし、これらの神話的描写には必ずといっていいほど現実に平行して意味を持つことに注目してください。
スヴァーヴァはヴァルキュリャとしてヘルギの遠征を空中から支援しますが、地上ではもうひとりの女性存在がヘルギに愛を迫ります。ヘルギに父を殺された女巨人フリームゲルズルは、夜にヘルギの軍勢が停泊しているフィヨルドにあらわれ、ヘルギに父を殺した賠償として自分と一夜を共にするよう脅迫します。ヘルギの副官がかの女との会話をひきのばして罠にかけ、朝日を浴びた女巨人は岩と化して、かの女の願いは成就しません。ですが、神話においては、同じ要求が異なる結果につながります。神々に父を殺された山の女巨人スカジは、オゥジンの美しい息子バルドルとの結婚を賠償に要求しますが、神々は足のみを見て花婿を選ぶよう条件を出します。スカジは最も美しい足を持つのがバルドルと考えて選びますが、その足の持ち主は航海の安全を司る神ニョルズでした。ふたりは結婚するとそれぞれの住処である山と海辺に交互に住むようにしますが、互いに相手の住処での生活に耐えられず、結局は別々に暮らすようになります。
ヴァイキング時代の物語において女性が担う役割は、財産であり、運命です。ここには単なる象徴だけでなく、現実が反映しています。女性はいわば豪農や王侯たちの勢力拡張の駒であり、血縁関係をつなぎ合せる紐帯であると同時に、即物的にも、女性が結婚の際に伴っていく嫁資と呼ばれる財産によって潤うのです。
それだけでなく、女性は多くの場合、男性に行動を起こさせる最大の動機でもあります。ノルウェーに初めて統一王朝を建てたハーラル王は、まだ地方の小王であった時代にある小王の娘に求婚しますが、地方の一小王には嫁がないと娘にそれを蹴られ、奮起してノルウェー統一を志したと伝えられます。女性を巡っての決闘はサガの最大の見せ場のひとつといっていいでしょう。
ですが、女性は不運をもたらす存在としても描かれ、嫁いだ男が次々と死んでいくトラブルメイカーのようなひともいます。神話や伝説においては、そのような女性の側面はフリームゲルズルのような女巨人に集約して負わされている場合が多いのですが、ヴァルキュリャと表現される女性たちも、女巨人たちのように嫌悪される存在としては描かれなくとも、死の運命をもたらすものとしては同様です。
運命という概念が死と密接に関わるこのような表現は、われわれには理解しがたいもののようにも思えます。日本語にも、<ツイている(憑いている)>という表現があるように、運、不運というものを人格的に見る傾向はあります。ですが、北欧、特にアイスランドやノルウェー北西部といった地域は、おもに漁業などの海産資源や、牧畜によって生計を立ててきた地域です。これらの資源は常に有限のものとして意識され、漁運や天候運、出産運は誰かに独占されてしまえば他の人々にはお鉢が回らないもので、<憑いて>いるひとから運を引き剥がそうと、さまざまな黒魔術が近代に至るまで密かに行われました。それらは<女性的>な暗い感情に根ざしたものと理解され、そのような行為を行う男性はエルギ、すなわち<男色の女役>をやる奴だと罵倒の対象になりました。神話においては、フレイァに由来するといわれるセイズという魔術をオゥジンも行ったとされます[vii]。おそらくそれに関連して、ある神話詩の中で、かれは女性に姿を変えて魔術を行ったと非難されています。
運(ハミンギャ)とは、一族について回るものと考えられたようです。あるアイスランドのサガに語られているところでは、アイスランドへの旅の船上、一族の家長が死に瀕していると、波の上を鎖帷子を着た大きな女が歩いてきて、家長ハッルフレズルはそれがかれのフュルギャコナ(fylgjakona「フュルギャ妻(霊的妻)」)であると知ります。かれは自分とかの女との関係が終わったことを宣言します。女は長男に自分を受け容れるか尋ねますが、かれは拒否し、家長と同じ名前の次男がかの女を受け容れると宣誓すると女は姿を消します。
フュルギャ(fylgya)とは、「後に従う」、「ついて来る」といった意味での普通動詞でもあり、現代アイスランド語でもその意味で用いられています。霊的存在をあらわすときも、「ついて来るもの」、「後に従うもの」といった訳が適当でしょう。面白いことに、この用法は日本語の「ツく」と似ています。両言語とも、知らず知らずのうちに、「…が」憑いている、という意味のことを話しているのです。「お前ツイてるな」、といえば、日本語なら「貧乏神が」とか、「霊が」とか、「福の神が」、というのが知らず知らずのうちに語られぬ主語になっています。「俺がついてるんだから(大丈夫)」、などという場合にも、漢字的にいうと「憑いて」と「付いて」で別の意味になりますが、そのこころには、援助者としての自分を福の神や守護霊と同列に並べているように思えませんか?アイスランド語でも、普通に「かれがついて来た」といえば、知らず知らずのうちにその人への信頼感がこめられるのではないでしょうか。
フュルギャは、出産の後産への信仰から派生した概念であるとの説もあります。後産というのは、自然な出産なら赤ちゃんのあとから出てくる胎盤のことですが、ハミンギャ(hamingja)ということばも、「後産、羊膜、大網膜」という意味でのhamr(一般には「(動物の)皮」、「鳥の羽毛」、「蛇の抜け殻」などの意味)から来ているとの説があります。大網膜とは、ときどき赤ちゃんが被って産まれてくることのある膜で、羊膜はお腹の中で赤ちゃんを包んでいる膜で、大網膜はこれが残ったものと考えられるようです。ロシアやフランスなど、ヨーロッパでは幅広く、大網膜を被って産まれてきた赤ちゃんは幸せになるとか、赤ちゃんは必ず双子でお腹の中に育ち、この世に生きるべく運命づけられた新生児に対し、後産はあの世に行くべく運命づけられた子どもだとする信仰があるようです。北欧の文献にはそれと似た信仰があったことを裏づける直接の記述は見つけられていませんが、フュルギャとハミンギャは相互互換的で区別のつかないあらわれ方をしており、元来ともにこのような概念から発達したのだという仮説は魅力的に思えます。
ノルニルもまた、出産に関係した存在です。ノルニル(nornir;単数形norn)という名前の意味ははっきりしませんが、「秘密裏に伝達する」ととも仮定されている、ローマのパルカィのイメージと重なる「捻る、巻く」という意味が最もありそうです。ノルニルは特定できない多数の女神的存在たちによってなる集団的概念ですが[viii]、その代表格として神話にも登場するウルズル(Urðr)が、本来ノルニルよりも先に北欧に存在した概念なのかもしれません。なぜなら、ウルズルという名前もまた、「回す、巻く」という意味から派生していると考えられ、古英語wyrd(現代語のweird(「気味が悪い」;古典的表現では「運命」)の古い形)と同根のことばと考えられますが、このことばは直裁に「運命を」意味しえたからです。ノルニルは神話でも重要な存在と考えられ、世界樹ユッグドラシルを世話しているのは、ウルズル、ヴェルザンディ、スクルドの3姉妹であるといわれます。ですが、このお話の初めのほうでも触れたように、出産の際に運命を定めに来る存在としての方がよりポピュラーな概念であったようです。ヘルギの名づけを第2の誕生と見るなら、その名づけとともに英雄としての幸運をもたらすスヴァーヴァはノルン的です。スノッリは「散文のエッダ」でウルズル、ヴェルザンディ、スクルドノルニルの3姉妹の名前を「過去」、「現在」、「未来」の意であるとしていますが、この説に従うと、3姉妹の名前はそれぞれ、動詞‘verða’「なる」の過去分詞、現在分詞と、動詞‘skulu’「~するであろう、するべし」に関係しています[10]。スクルドはノルンであるとともにヴァルキュリャでもあると言及され、ヴァルキュリャはノルンの職能の一部を受け持つだけの存在とも考えられたのかもしれません。
ノルニル信仰は助産婦の女神としての信仰の側面もあったかも知れません。曜日がその考えから来ているように、占星術では、ある区切りごとに7人の神が1日の時間を支配すると考えられましたが、民俗の資料では、運命の女神が「この時間に産んではこの子の運が悪くなるよ」と忠告する存在としてあらわれます。単に移り気な運命の女神よりも、こちらの方がより本来の姿に近いのかも知れません。
ここまでのお話を整理しながら、発展させてみましょう。ヴァイキングの神話やサガに登場するヴァルキュリャは、何重もの意味での女性性を背負った存在であることを見てきました。まず第一に、非常に形而上的な意味合いにおいて、ヴァルキュリャ、フュルギャ、ハミンギャ、ノルニルといった<女性存在>は、父と母の二つの性を介助して、魂や運命、優れた力を与える<第3の性>(守護天使)であるといえましょう。フレイァやフリッグを代表とする女神たちが、『詩のエッダ』のある詩において、難産を救うために請願すべき女神として挙げられます。同じ『エッダ』の「シグルトリーヴァのことば」においては、ヴァルキュリャのシグルトリーヴァが英雄シーグルズルにルーネ文字(魔法の文字)を教授しますが、そのなかに、妊婦の分娩を助ける安産のルーネ[11]も含まれます。そこでも、ディース(女神)たちに加護を願うようにいわれています。
仏教説話にも、釈迦が生まれる前に、母后は白い象が胎内に入ってくる夢を見たとのエピソードがあるように、このような観念は非常に広く見られるものです。ヴァイキングの<介助者>たちが多くの場合女性の姿で表現されるのは、魂を鳥の姿で表現するように、視覚的な表現のための方便、見立てとしての側面もあるでしょう。
第二に、財産、資源としての女性性。女巨人も含めて、女性は移行可能な資産としてあらわされます。ここにおいて強調されているのは女性の物質的な価値であり、気まぐれで意のままにならない運と女性性が二重写しにされています。また、女性性は、そのような運を操りうるものとして畏怖の対象でもありました。これは、女性の現実の生活において担わされていた社会的役割、ジェンダーに重なります。
普通、女性性といえば身体的性差、セクシュアリティに因る、豊穣、生産力の源泉としてのもの(母性)が真っ先に想起されるでしょう。第一に挙げた生産を助ける機能も、広くいえばここに含まれるかも知れません。ですが、ヴァイキング時代の北欧においては、その機能はむしろ男性性に属するものとして認識されていたようで、女神フレイァの兄弟フレィルが特にスウェーデンにおいてその機能において崇拝の対象になっていたのが代表的な例といえます。フレィルをあらわしているとされる像は、巨大な陽根を屹立させたものです。ヴェルシと呼ばれる牡馬の切り取られた陽根を列席した人々が順番に手に取る、豊穣の儀式と思われる記録が残っています。神話においても、不思議なほどに中国の女禍や、ギリシァのガイアーのような,原始太母(グレートマザー)的な存在の影は薄く、スノッリによると世界は牝牛に養われた巨人の身体をばらばらにしてその部分からつくられたのです[ix]。
明らかなのは、この観念自体に、女性の心というものが全く考慮されていないことです。ヴァイキングたちの社会的規範において、女性には資源としての価値しか認められず、それ以外の要素は、周到に切り離されていたかのようにすら見えます。あえて誤解を恐れずいえば、このような位置づけは決して不当とはいい切れません。男性がそうであったように、女性も、生存という大目的を果たすために、ある意味では自らその義務、役割を選び取っていたのです。現在のわれわれは、一見すると前代の人々よりも自由に生きているように見えますが、自覚しないうちに、より大きな義務や強制を実態のないなにものかから、目的もわからず背負わされているように思えます。きっと前代の人々から見れば、われわれは何と多くの余計なものを自ら進んで担っていることかと、呆れるばかりでしょう。ヴァイキングたちの価値観は、個人主義とさえいえるほど明快です。
このような観念の歪さは、各地域の文明の個性というものを特徴づけているように思えます。より古い時代には、むしろ芸術表現はより素直です。北欧の絵画岩絵には、狩猟をするいでたちの大きな陽根を持つ男性たち、それと性交していると思しき大きなお腹をした女性、狩の対象の動物たちなどがなんのてらいもなく描かれています。このような形象は、地域や時代を超えてわれわれにも直接訴えてくる何かを持ちますが、後代の形象はより複雑な、社会、歴史、神話という物語を持ち、それを知らなければ理解は簡単ではなくなってくるのです。
ですが、芸術は社会の歪さを浮き彫りにし得る表現です。作者は否が応でも定型的な表現におけるヴァルキュリャたちの心の不在に直面し、かれ自身納得し得る理由付けを得なければならないのです。
ヘルギとスヴァーヴァの物語に戻ってみましょう。かれらは夫婦の誓いを交わしますが、まだ一緒に暮らさず、ヘルギは戦いにでかけ、スヴァーヴァは変わらずヴァルキュリャのままでした。
Helgi konungr var allmikill hermaðr. Hann kom til
Eylima konungs ok bað Sváfu dóttur hans. Þau Helgi ok
Sváfa veittust várar ok unnust furðu mikit. Sváfa var
heima með feðr sínum, en Helgi í hernaði. Var
Sváfa valkyrja enn sem fyrr.
Heðinn var heima með föður sínum,
Hjörvarði konungi, í Nóregi.
Heðinn fór einn saman heim ór
skógi jólaaptan ok fann trollkonu. Sú reið vargi ok
hafði orma at taumum ok bauð fylgð sína Heðni.
"Nei," sagði hann. Hon sagði: "Þess skaltu gjalda
at bragarfulli." Um kveldit óru heitstrengingar. Var fram leiddr
sonargöltr. Lögðu menn þar á hendr sínar ok
strengðu menn þá heit at bragarfulli. Heðinn strengði
heit til Sváfu Eylima dóttur, unnustu Helga bróður
síns, ok iðraðisk svá mjök, at hann gekk á
braut villistígu suðr á lönd ok fann Helga
bróður sinn. Helgi kvað:
ヘルギ王(Helgi konungr)は偉大な勇士(allmikill hermaðr)[12]だった。かれはエイリミ(Eylimi)王のもとに来てそしてかれの(Eylimi王の)娘スヴァーヴァ(Sváva)を所望した。ヘルギとスヴァーヴァは互いに誓い(vár)[13]を交わし、深く愛し合った。スヴァーヴァは故郷の父のところに残り、ヘルギは遠征(hernaði)に出た。スヴァーヴァは相変らずヴァルキュリャvalkyria)だった[14]。
ヒョルヴァルズ(Hiörvarðr)の子へジン(Heðinn)は、ノルウェー(Nórege)の父のところにいた。
ヘジンはユールの祭りの前の晩(ióla-aptann)、森からただ一人で帰路についたとき、女巨人(trollkona)に出会った。女は狼にまたがり、蛇を手綱にして、ヘジンに同行を申し出た。かれは「ことわる」といった。女はいった。「この償い(gialda)は主賓への杯(braga(r)full)をあげるときに、つけてもらうからね」
その夕方に宣誓の行事(heitstrenging)があって、犠牲の猪(sonargöltr)が前に引き出された。人々は猪の上に手をおいて、主賓への杯をあげた。ヘジンは、エイリミの娘で、弟ヘルギ[15]の愛人(unnusta)[16]スヴァ-ヴァを手に入れることを誓った(heit)。そして後で大いに後悔したが、荒地を通って南の国にむかい、兄弟のへルギに出会った。
33.
"Kom þú heill, Heðinn, ヘジン、よくきてくれた
hvat kanntu segja 何か 変事が
nýra spjalla あったのか
ór Nóregi, ノルウェーで
hví er
þér, stillir, 勇士よ、なぜ、
stökkt ór landi 国をたって
ok ert einn kominn 一人でわたしたちに
oss at finna?" 会いにきたのだ
Heðinn kvað: へジンはいった
34.
"(Erumk-a, stillir, (地に選ばれた
stökkt ór landi)エルムクよ、静かに? )[17]
mik hefr miklu glœpr ひどい悪行(glœpr)に
meiri sóttan, とりつかれてしまったのだ[18]
ek hef körna わたしは選んでしまったのだ、
ina konungbornu 王の娘で
brúði
þína汝の妻(brúðr)を
at bagarfulli." 浄杯(braga(r)full)の誓いに
Helgi kvað: ヘルギがいった
35.
"Sakask eigi þú, 自分を責めるのは止しなさい。
sönn munu verða へジン、その
ölmál Heðinn 酒の席でのことば
okkur beggja. われわれ二人にとってまこととなるにちがいない
-- -- -- -- -- --
-- -- -- -- -- --
-- -- -- -- -- --
-- -- -- -- -- --[19]
36.
Mér hefr stillir ある王が、わたしに
stefnt til eyrar, 決闘をいどんで(stefna)[20]いた
þriggja nátta二夜のうちには、
skylak þar koma; そちらに行かなくてはならない
if er mér á því, 疑わしい
at ek aftr komak; ふたたび戻れるかどうか
þá má at góðu 戻れない定めなら、
gerask slíkt, ef skal." 誓いのようになるだろう
Heðinn kvað: ヘジンはいった
37.
"Sagðir þú, Helgi, ヘルギよ、汝は、
at Heðinn væri このへジンが
góðs verðr frá þér 汝から大きな贈物やよいものを
ok gjafa stórra; うけるのに値するといわれたが、
þér er sœmra 汝にはふさわしかろう
sverð at rjóða, 敵に
en frið gefa平和を与えるより、
fjándum þínum." 剣を血に染める方が
Þat kvað Helgi, þvíat hann
grunaði um feigð sína ok þat at fylgjur hans
höfðu vitjat Heðins þá er hann sá konuna
ríða varginum.
Álfr hét konungr, son Hróðmars,
er Helga hafði öll haslaðan á Sigarsvelli á
þriggja nátta fresti. Þá kvað Helgi:
こんなことをへルギがいったのは、かれが自分の迫りくる死を予感したからだし、かれのフュルギャ(fylgja)[21]がへジンを訪れたといったのは、かれの妻(kona)が狼にまたがってゆくのを見たときだ[22]。
三日の期限付きでへルギにシガルスヴェリル(Sigarsvöllom)での決闘をいどんだ(hasla(að))のはフローズマル(Hróðmar)の子のアールヴ(Álfr)という王だった。
38.
"Reið á vargi, 「狼にのっていたという
er rökvit var, 夕方に
fljóð
eitt er hann かれにたのんだその女
fylgju beiddi; ついて行きたいといって
hón vissi þat, かの女は知っていたに違いない
at veginn myndi 討たれることを
Sigrlinnar sonr シグルリン(Sigrlinn)の子(ヘルギ)が
á Sigarsvöllum." シガルスヴェリルで」
Þar var orrosta
mikil, ok fekk þar Helgi banasár.
そうして激しい闘いがあって、ヘルギは致命傷を負った。
ユールとは、北欧の冬至のお祭りです。現在スウェーデンなどで行われているユールのお祭りは、クリスマスに近い時期に行われていますが、ヴァイキング時代当時は、冬の入り、11月半ばから12月半ばの間に行われていたと考えられています。このお祭りは、いわゆる家族や共同体の固めの儀式であったようで、エール(上面発酵の弱いビール)を大釜から酌み交わし、オゥジンやフレィルなどの神々にエールを捧げたとされています。一方、主賓への杯(braga(r)full)とは、神への献杯か、葬式の宴の際に先祖たちに向けて捧げて乾す一杯のことと考えられますが、ここではおそらく、誓いを立てて乾す一杯を意味しているのでしょう。誓いの杯、浄杯と意訳してもいいでしょう。
へジンは酩酊して先祖に誓って弟の恋人を奪うことを宣誓してしまったのですが、これは女巨人が仕組んだことでした。この女巨人がなにものか、ここまでお話を聞いてくださった皆さんには想像がつくかと思います。かの女はヘルギの治めるスヴァーヴァランドそのもの、ヘルギの一族の運(ハミンギャ、フュルギャ)そのもの、そしてかれの妻そのものであるように読めます。ですが、この妻とは果たしてスヴァーヴァ自身なのでしょうか?ここでの女巨人の記述は、先にお話したフュルギャコナを思い起こさせます。かの女は、自らヘルギの死期を悟り、兄弟のヘジンに受け容れるよう求めています。
そしてヘルギの死後、ヘジンは女巨人の定めたようにスヴァーヴァに求婚し、それに対してスヴァーヴァはこのように応えます。
45.
"Mælt hafða ek þat わたしは誓ったのです
í munarheimi, 愛する方の愛した家で
þá er mér Helgi ヘルギが指輪とともに
hringa valði, (結婚してくれと)いったときに
myndig-a ek lostig 決してしはすまいと
at liðinn fylki もし戦士(ヘルギ)が仆れても
jöfur ókunnan名誉なき男は
armi verja." この腕では抱くまいと
スヴァーヴァはここで、ヘジンに嫌悪を示しているのではありません。むしろ、へジンに、わたしを妻にしたければヘルギの仇を討たなければならないと、復讐を唆しているのです。ヴァイキング時代の価値観では、親族が殺害されれば、必ずその復讐を果たすことが一族の名誉とされました。名誉なき男とは、それが果たせない男に他なりません。「エッダ」の他の詩でも、シーグルズルの元妻グズルーンが、自分とシーグルズルとの間の娘が殺害された際、息子たちを嘲弄して、到底勝ち目のない復讐行に赴くよう仕向けます。明らかに詩の中にあっては、スヴァーヴァはスヴァーヴァランドという国の化身として、国の不名誉を濯ぐように声高に主張しているのです。
そのため、この詩の最後に散文で付されている次の一節は、明らかに詩の内容にそぐわず、突飛に出てきた印象を持ちます。
Helgi ok Sváfa, er sagt, at væri endrborin.
ヘルギとスヴァーヴァは、生まれ変わったと語られている。
散文の作者はわざとこの一文を挿入することによって、ヘルギとスヴァーヴァの間に運命以上の執着が存在するようかのように、わたしたちに詩を誤読させようとしているように見えます。そしてそれは、明らかに企図してのことでしょう。『エッダ』諸作においては、散文の作者が詩を恣意的な操作によって異なる意味に導く態度が全体に見られるので、このこと自体は珍しいことではありません。ですが、この部分ほど、突拍子もなく作者が自分の解釈をねじ込んでいるように見える書き方は、珍しいようです。
ひとつの完結した詩の物語を、無理に見えるようなやりかたで次に繋げようとするこのようなあからさまに意識的誤読を作者が自分自身にも強いているのは、その不自然さ以上に、かれ自身が伝統的な<単なる>ヘルギの人生の道標、ヴァルキュリャとしてのスヴァーヴァ像に満足できなかったからであるように思えます。それは決して現代的な意味での感傷からではありません。かれの意図は、ひとつらなりの<ヘルギ転生譚>全体を見渡したときに初めて明らかになるように思われます。実は「ヒョルヴァルズルの息ヘルギのことば」は、「フンディング殺しのヘルギのことば Ⅰ」と、「フンディング殺しのヘルギのことば Ⅱ」と呼ばれる同じ英雄を扱ったふたつの詩に挟み込まれるかたちで残されています。フンディング殺しのヘルギとは、『詩のエッダ』ではヘルギ・ヒョルヴァルズスソンが生まれ変わったひととされています。編者がふたりのヘルギのあいだに特別なつながりを持たせたのは何故でしょう?その理由は、「フンディング殺しのヘルギのことば Ⅱ」の結末にあらわれているように思えます。
英雄シーグルズルの異母兄である英雄ヘルギは、ヴァルキュリャのシグルーンに愛され、かの女が心ならずも親同士の取り決めによって嫁ぐことになっていた相手の王子を倒して自分を妻とするように懇願されます。ヘルギはそれに従いますが、シグルーンの
一族も敵の側に立って戦い、かの女の弟以外は皆殺しになります。シグルーンの弟ダグルは、オゥジンに請願して槍を授けられ、ヘルギを討ちます。シグルーンはヘルギを喪った悲しみに沈んで日々を送りますが、その悲しみのために平穏でいられないのだと、ヘルギがヴァルホッルからかれの墓に帰ってきて、かの女と一夜を過ごします。
本来はヴァルホッルにおける英雄たちを迎えるヴァルキュリャのモティーフのヴァリエーションに過ぎなかったかも知れないこのシグルーンの入墓を、作者は、生身の英雄に仕える超自然的女性存在ではなく、超自然的男性存在たるエインヘッリャルのヘルギと共寝する生身の女性によるものとして受け止めたのではないでしょうか。<人間として>のかの女を納得するには、普遍的な義務や価値観からは離れた、個人の愛執を肯定し得るほどの強い絆の存在に、前者に相対しうるほどの強さを見出すより術はないでしょう。それゆえに、本来独立して完結していた「ヒャルヴァルズルの子ヘルギのことば」の詩を、別のヘルギの詩ふたつの間に挟みこんで、北欧的家族のドグマをも乗り越えればいられないほどの、男女の絆の強さを示したかった、というのがわたしの結論です。これを、ヴァイキング文化が薄れ行く中の詩の惰弱化と簡単に断ずることも可能かも知れません。ですが、何よりも個人としての自己を全うすることを追求する登場人物によせる作者の共感がなければ、詩の伝統的な部分の備える、美意識もまた、わたしたちにも届く普遍的な輝きを放つことなく埋もれてしまっていたでしょう。
これらの詩ばかりでなく、北欧初期文学における詩人や物語執筆者たちの共感の対象は、明らかに、本来男性たちの人生の分岐点に<過ぎず>、運命の決定者である<べき>、女性たちに向けられる場合の方が目に付くように思えます。これは、かならずしも現実的に女性の権利に向上が見られたとか、女性の芸術家が多かったとかいうことを示しているとは考えられません。あたかも『人形の家』のイプセンがかれ自身は女性人権論者でもフェミニストでもなかったにもかかわらずノラを精神的自立を求める女性に描かざるを<得なかった>ように、芸術的行為とは本来全く自己とは正反対のように思われる存在への強烈な感情移入をもたらし、かれらの魂の瞳を全く思いもよらない側面へ連れ去ります。『源氏物語』において、もっともよく<描けて>いるのは我侭で幼児的な男性たちであり、女性登場人物たちは単なる類型的人物像の範疇に留まっています。何らかの表現をしようとするひとは必ず、自らが企図したのとはまったく逆の結果に戸惑った覚えがあるでではないでしょうか。魂を<成長>させるのはまさに芸術活動のみであるといえましょう。
[1] 日本の地形用語でいうフィヨルドは厳密にはノルウェー西部の海岸域にしか見られません。ですが、フィヨルドということばは北方ゲルマン語でひろく「細長い入り江」や「湾」を指し得、デンマークやスウェーデンの地名にも存在する。アイスランドでも当然、「フィヨルド」という地名は一般的ですし、ここでは文字通りのフィヨルド地形もひろく見られます。
[2] 神話が先か、英雄伝説が先か、という議論は簡単に決着するものではなく、それこそ紀元前のギリシァから戦わされてきた課題です。ただ、『詩のエッダ』中最も高名な神話詩「巫女の予言」の構成に影響を与えているといわれるシーグルズル(ドイツでいうジークフリード)伝説の登場人物たちは、史上実在の人物をモデルにしていると考えられ、少なくとも神話より英雄伝説の方がよりポピュラーなものであったことは間違いないと思います。
[3] 「無敵で」とも読めます。
[4]「おしで」とする訳もありますが、あまりにも神話的過ぎて却って支持しにくい解釈ですし、もとの意味からすると強引に過ぎる解釈のようです。
[5]
rógapaldr「諍いの林檎の木」はケンニングという詩的技法により、慣用的に戦士を意味します。
[6] 詩は独特の文法を無視した、押韻法を重視した構成となっているため、直訳ではおそらく意味がとりにくいかと思いますが、この部分の大意は以下のような感じになるかと思います。
「ヘルギよ、いかに猛きこころをもっていても、黙っていてはそれを示すことはできません。夜明けの鷹は早く鳴くものです」
「おとめよ、わたしに名を与えてくださるのですか それにはどのような贈り物が伴うのです? あなたがわたしのものにならないのなら受け取りはしませんよ」
[7] ヒョルヴァルズルはヘルギの父の名ですので、原文のここでの話者はヘルギ自身でなければ意味が通らないように思えます。散文の部分は詩に元来ついていた部分とは考えられないので、散文を付した編者が、隣で父親が聞いていて息子の花嫁になるように口出ししているのだとでも解釈したのでしょうか。現在のわれわれには父親がこうも息子の結婚話に積極的にしゃしゃり出てくるのは気味が悪くすら感じられますが、ヴァイキング時代には当人たちの頭越しに家同士で結婚話を進めるのもよくある話でしたので、少し感覚が違うかもしれません。
[8]北欧の物語においては、よく語る、雄弁であることが賞賛の対象たり得ました。物語の舞台となるノルウェー北東部やアイスランドにおいては、各農場世帯間の距離が離れていたり、険しい地形で往来が困難で、遠方からの客が携えてくる、最近の世情や事件に関するニュースは大きな価値を持ちました。更に、当時はシング(民会)と呼ばれる地域豪農の集会が司法決定機関でした。このシングのシステムは近代的な法廷のように、地域法廷、地区法廷、全島法廷(または王立法廷)と段階がありました。ですが、特にアイスランドにおいてですが、司法判断が下っても、それを執行する機関が不在で、勝訴したグループが自ら執行人とならなければならなかったこと、更に、専門的な弁護士などいませんので、往々にして地域の有力者たちが、当事者たちの代弁者として期待されたということがあります。このような機会は、有力者たちの能力が判断される最大の材料とされましたから、かれらは方法の知識だけでなく、如何に雄弁に語って多くの他の有力者を自分の側に引き入れるかが試されたのです。ですが一方で、真に優れたひとは大事なことは秘しておき、無駄口を叩いたり無闇とひとを嘲って敵を増やさないという描写も多く見られます。ここでヘルギが無口であるということは、かれの慎重な賢明さをあらわしていると思われます。
[9] サガ自体には「オゥジンの子と呼ばれた」とされていますが、おそらく、ここで意図されているのは養子でしょう。「詩のエッダ」には、オゥジンがある国の王子をわざと漂流させて養育する話が出てきますが、レリルもおそらく同じようにオゥジンに見込まれた王族だったのでしょう。
[10] ウルズ(Urðr)は‘verða’の過去分詞‘orðinn’、ヴェルザンディ(Verðandi)は現在分詞に関係し、そしてスクルド(Skuld)は‘skulu’に由来します。そのため、しばしば、ウルズが「なるもの(became)」、ヴェルザンディが「なれるもの(become)」、スクルドが「なりつつあるもの(becoming)」と3人の名前が明らかに関係したかたちで説明されます。これは、明らかにギリシァのモイラィとの関係を髣髴させる説です。モイラィの名前は「切り取るもの、あるいは割り当てるもの」を意味し、クロートー(紡ぐもの)、ラケーシース(その織布の長さを決めるもの、あるいは運命の図柄を書くもの)、アトーロポース(不可避のもの、あるいは鋏を入れて断ち切るもの)の3姉妹であらわされるのです。また、パルカイは「子を産むもの」を意味します。
[11] ルーネとは文字どおりには「秘密」を意味し、ラテン文字流通前のゲルマン語族に広く流通した表音文字です。石や木に刻み込むのに適した文字で、現在は主に墓碑銘として残されたものをよく目にします。ですが、『詩のエッダ』のいくつかの詩に言及されているように、呪術的な行為にも用いられたらしく、その意味では表意文字的な側面も持ちます。
[12] La Foarge, Beatrice and tucker, John
Glossary to the Poetic Edda (Heidelberg 1992)によると、`all-mikill’「偉大な」あるいは「無敵の」。’hermaðr’「戦士(闘士)」。
[13] 「平和の誓い」あるいは「夫婦の貞節の誓い」を意味します。
[14] `Var
Sváva valkyria enn sem fyrr’「Svávaは依然として以前のvalkyriaに属していた」。
[15] 谷口幸男氏による両『エッダ』の訳本では、ヘルギが兄であるとされていますが、これは明らかに誤っています。「ヒャルヴァルズルの子ヘルギのことば」のはじめの方の散文において、ヘルギの父ヒャルヴァルズルはヘルギの母シグルリンを得る前にすでに3人の奥方を持っていたとされますが、へジンはそのひとりの子としてすでにそこで言及されています。更に、ヒャルヴァルズルはノルウェー王であり、ヘルギはかれの母シグルリンの父の王国をかれの殺害者から取り戻して王となったのです。これは、父の王国では継承権の順位が低かったために外に自分の国を求めたことをも示しているでしょう。ヘジンはノルウェーに留まっているのですから、少なくともヘルギより継承順位は上の筈です。
[16]`be
loved’, `mistress’を意味します。俗的な意味でなく、本来の意味での「愛人」。
[17] 意味不明の部分。多くの刊本では省かれています。
[18] 直訳は、`Mic
hefir myclo glœpr meiri sóttan’「非常に邪悪(sóttan)な非常な間違い(あるいは罪、非道)を担わされた」といった意味。
[19] 写本ではこの詩節の続く2連(4文節)が、書き写す際に抜け落ちていると考えられます。『詩のエッダ』は、写本では詩の分節を無視して、全く段落わけせずに書かれています。それを、この詩の場合は4連で1詩節の定型に再建する際に、足りない部分が出てくるので、このことが推測できます。
[20] `stefna’で「闘いを挑む」。後で出てくる`hasla(að)’も同じ意味で使われています。決闘は古代ゲルマン社会では正式に規定された法的解決手段であり、アイスランド移民後も暫くは認められてました。`hasla’が元来「ハシバミの棒で位置を定める」という意味である事が示すように(`stefna’の本来の意味は「召喚」)、決闘は神聖なものとされ、ハシバミの棒を立てて定められた領域内や、小島(hólmganga「小島にいく」でも「決闘」の意味を持つ。移民以前は文字通りの島、アイスランドでは川の砂洲など)で行われました。恐らく、古代ゲルマン社会の神明裁判の一形態として行われていたものでしょう
[21] 谷口氏は「守護霊」と訳しているが、やや語弊があるように思えます。`fyrgja’は霊的存在としての意味と共に、「附いて行く」「属する」などの意味を持つ動詞としても用いられます(HHv.
(35)にも`fylgio beiddi’「附いて行くと言い張る(強要する)」という例が見えます)。
[22] ‘hann
sá konona ríða varginom’。
‘kona’は普通「女性」を意味します。同じHHv.の中に(第1節)、`Hiorvarðz
konor’「Hiörvarðrの妻」という表現が見えるが、ここでの`kona’がスヴァーヴァを指していわれているように取れる「妻」というニュアンスを持つかどうかは、文脈の上では決しにくいです。
[i]今日われわれ日本人が北欧と呼んでいるのは、具体的には、ヨーロッパのスカンディナヴィア半島の諸国、即ちノルウェー王国(Kongeriket
Norge)、スウェーデン(Sverige)、、フィンランド共和国(Suomi
Tasavalta)と、ヨーロッパドイツ北部に接するユトランド半島と、フェーン島、シェラン島などから成るデンマーク王国(Kongeriget
Danmark)、そして一部北極圏にも属する北大西洋上の島国、アイスランド共和国(Lýðveldið
Ísland)の5ヶ国のことです。また、デンマークは北大西洋から北極圏にかけて位置する世界最大の島グリーンランド、ブリテン諸島から見て、アイスランドとのほぼ中間点に位置するフェーロー諸島を領有し(ともに自治領)、ノルウェーは北極圏のスヴァールヴァル諸島を領有、南半球のピーター1世島とブーヴェ島を保護領としています。フィンランド以外の4国は北方ゲルマン系の言語を主要言語として話す国民が大勢ですが、フィンランド語はフィン・ウゴル語系です。また、フィンランド、ノルウェー、スウェーデンの北部域を中心にして、フィン・ウゴル語系のサーメ語を話すサーメ人と呼ばれる人々が居住し、グリーンランドの人口の大半はモンゴロイド系のカヤクートと呼ばれるひとびとです。
第1次世界大戦以降北欧諸国はひとつのまとまりとしてのみずからをNorden「北」と呼ぶようになりましたが、神話が記録された、所謂ヴァイキング時代からこの地域の中世にかけての時代には、フィンランドは国としての実体を持っておらず、歴史的には、北方ゲルマン系の言語を話すひとびとの活動がこの地域の中心でした。この時代は北方ゲルマンの活動が最も拡大した時期でもあり、国名は同じでもその範囲などは現在とは異なり、また時期によっても大きく変動しています。例をあげると、1013年、イングランドを併呑、その後1028年にノルウェーも支配したクヌート大王時代のデンマーク、いわゆる北海王国は、はやくも1042年には息子のハーデクヌート男系後継者なくしての死により、イングランドには古い王族が返り咲き、1035年に再び独立したノルウェー王マグヌースがデンマーク王をかねることになります。また、この時代にはまだスカンディナヴィア半島北部にはノルウェーやスウェーデンの直接的な支配は及んでおらず、サーメ人の生活域が広がっていました。現在のサーメ人の生活様式を特徴づけているのは遊牧ですが、当時のサーメ人はフィン人とともに狩猟採集民族であり、遊牧はむしろノルウェー人の生活様式の一部でした。<北欧人>たち―――これ以降本論においては、大体紀元200年代以降、この論で主に扱う1300年代までの、スカンディナヴィアの北方ゲルマン語を使用した住民、及びアイスランドやグリーンランドのような海外に移民したその子孫たちをこう呼びます―――は、おそらくキリスト教改宗以前の時代を通じて、現在古ノルド語と呼ばれている、かれら自身はディン語(デンマーク語)と呼んだほとんど共通の言語で互いに理解し合えたと考えられています。これらの北方ゲルマン―――8-12世紀のヴァイキング時代当時は総称してノースメン(Norðmenn)、ディン人(Dansk)などと呼ばれた―――は、インド=ヨーロッパ語族のゲルマン語族と総称される一派に属します。かれらの祖先がいつはじめにスカンディナヴィアに到来したのかはよくわかっていませんが、おそらく紀元200年ごろ以降現在のデンマークを含むスカンディナヴィアの住民はおおむね同一の古ノルド語をはなしていたとされます。
[ii] 「金曜日」は、古代ローマではdies
Veneris「ウェヌスの日」であったのが、4世紀以前にはすでにゲルマン部族一般に「Frîjaの日」系の言葉に翻訳されて用いられていました(古高地ドイツ語ではfríatag、古英語ではfrīgedeag、古北欧語ではfriádagr)。ここでいう女神Frîjaは、「女性」、あるいは「愛されるもの」を意味する言葉から出ており(ドイツ語の「フラウ」の親戚です)、言語的にいえば、北欧神話ではオゥジンの妻のフリッグの祖先であり、響きは似ていますが、「女主人」という言葉から発しているフレイァとは別物です。ですが、後世の崇拝の規模でいえば、女神では圧倒的にフレイァが上ですし、北欧ではフレイァと結びつけた由来の話も伝えられているようです。ですので、ここではあえてフレイァの日、という見方を示しました。
[iii] キリスト教改宗以前の北欧ゲルマン社会には、末期になるまで統一的な王権は存在しませんでした。大体普遍的に、一家族を主とした農場が分散して存在し、その下に奴隷や奉公人が働いてひとつのセクトを形成していたと考えられます。通商の拠点としての町は存在しましたが、社会は基本的にこうした独立農民世帯の地域ごとの合議制によって成り立っていました。ここでいう農民とは、言葉どおりの土地を耕すだけで生業を建てる専業の人々という意味ではなく、彼らは牧畜、狩猟、漁労、通商など可能な全ての方法で富を得ようとする生活者です。ただ、土地を持つということが社会的権利の裏付けとなったので、日本語では習慣的にこれらの人々(bóndi)は<農民>と訳されます(私は意味的により近いと思われる<豪農>としていますが)。
[iv] 紀元1000年頃、アイスランドは全島集会と呼ばれる豪農たちの最高意思決定の場において、全島挙げてのキリスト教改宗、<異教>の遺棄を決議しています。ですが、遠方で、アイスランドのキリスト教を管轄していた大司教座(時代順にハンブルグ、ブレーメン、ルンド、ニダロス(現在のトロンハイム))の指示が行き渡らなかったことや、ノルウェー王権の支配が14世紀に至るまで及ばなかったこともあり、改宗後もそれほどそれまでの人生観を変える必要がなかったことがこのような文芸隆盛に繋がった一因でしょう。ですが、ノルウェー王権に屈指、ペストの大流行を経た中世期以降、独自の文学も衰退の一途を辿ります。
ゲルマン共通(ゴート、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、イングランド、フリジア、諸フランク、その他のゲルマニア中央部)に普及した、ルーン文字とよばれる、石や金属、板に彫りつけるのに適したアルファベットが、おそらくローマのラテン文字に刺激されて、紀元2世紀以降整理されます。ルーン文字は、一般に信じ込まれているような、呪術的な目的に特化して成立した文字ではありません。ですが、後代に残りやすかった記録は、岩や金属に彫られたものが大部分で、それらは日常的な記録ではなく、墓銘文や装飾としての性格が強いため、後代の人間は、必然的に宗教的な感情や、素性不明の個人名、謎めいた記号の羅列ばかりを目にすることになるのです。ルーン文字のフサルク(fuþark;ルーン列、すなわちアルファベット順)の総数は、地域によって増減し、知られている最大の数は28個。だが、北欧では24個から、文書による報告が始まる9世紀頃までに、16個に削られました。ルーン文字とあわせて、北欧人の生活感情―――とりわけ宗教感情を偲ばせる重要な画期が、700年頃から絵画石碑芸術に訪れる。より写実的になった絵画の内容は、のちに記録された数々の神話や伝説のテーマを想起させます。特にスウェーデンのゴトランド島には集中的に残されている絵画石碑群は、紀元400年から1100年頃にかけて、現在約440基もが知られる重要なカタログをなします。
ヴァイキング時代は、北欧の中世前夜で、このなかで、北方ゲルマンの活動域は西はキエフ、南はコンスタンティノープル、東はブリテン諸島、北はアイスランドやグリーンランドにまで拡がった。アメリカ大陸のニューファウンドランド諸島にまでも足を伸ばしたと考えられています。ヴァイキング活動は、一般的に想起される略奪だけでなく、交易、植民といった多面的な要素を含むものであり、この活動を通じて<北欧人>という意識自体が拡大し、確立されて行き、その文化的にも加速度的に成熟したものと思われます。とりわけアイスランドの有力者たちの多くは、入植当時の北欧世界における知識層と呼べる有力な農民の子孫でした。これは、ヴァイキング活動の加熱化は、北欧諸国の王権強化の過程と表裏一体をなすものであったことと関係しているでしょう。この時代に、北欧ゲルマンの伝統的な自立した農民たちの多くが、海外に名声と財産を求めて流出し(王たちも例外ではなかったが)、その少なからぬ部分のひとびとが、王権による支配を嫌ってか、故郷を捨て、新天地を求めた。特に植民以前には殆ど<処女地>に近かったアイスランドは、そのような一連の動きの最も明確なかたちで結実した地であるといってよく、他文化との接触、交流を経て精錬された北欧ゲルマン文化の肥沃な土壌となったのです。このような文化的成熟度の高さもあって、当時のアイスランド人たちは、遠隔地にありながらも、当時の北欧文化圏において重んじられ、王の宮廷詩人として、またノルウェーの王朝史の執筆者などとして活躍することができたのです。
第二のゲルマン民族大移動ともいわれるこの時期に、かれらはラテン=キリスト教文化との最終的な接触を果たし、その結果かれら独自の信仰体系は捨て去られることになりますが、いっぽうで、かれらの古い信仰や神話の痕跡が、われわれに明らかな、さまざまなかたちで残される契機ともなりました。それは考古学的な資料としてだけでなく、以前のゲルマン大移動期には実現しなかった、北方ゲルマン自身による神話や伝承の記録としてわれわれに伝わったのです。これらの記録の多くは、12世紀初頭からノルウェーやアイスランドで用いられはじめた新しい字体のラテン文字[iv]の一般化により記述されはじめたもので、報告者の多くはアイスランド人です。
[v] オゥジンは百を優に越す異名を持つ神としても知られ、これほど多くの呼び名を持つ神は世界でもかれただひとりではないでしょうか。このことは、オゥジンが詩芸の創始者とされることと無関係ではないでしょう。北欧(特にアイスランドとノルウェー)でキリスト教改宗前後に流行した詩の流儀では、代称法やふたつ以上の言葉でひとつのものをいい替えるケンニングと呼ばれる技法を、現在のわれわれからみると辟易するほどにふんだんに盛り込むことが好まれました。
詩のインスピレーションの源泉としてオゥジンが言及されることは多く、表現が重なることを嫌って勢いオゥジンをあらわすためには多くの異名や成語的表現が必要とされるのです。もちろん、呪術的な忌避の意味合いなどもあったでしょうが、これほどの発達は現実的な側面がなければありえません。
[vi] 本文ではオースクメイ「願いの処女」。ヴァルキュリャの別称です。この名称から、若い女性の中が結婚前の一時期オゥジンに奉献されて一種の巫女となる習慣があったことを推測することができるかもしれません。
[vii]スノッリの「ユングリンガサガ」には以下のようにいわれています。
「 セイズ(seiðr)と呼はれ、最大のカがそなわっている術をオージンはできて、これを自ら行ないもした。これのおかげで人間たちの運命と、いまだなされていない事柄を知ることができた。そして、これによって人間に死や不幸や患いをもたらすことも、人間たちから正気や力を奪って他の者に与えることもできたのである。しかしこの魔法が行なわれると、非常に大きなエルギ(ergi)を伴い、これとかかわることは男には恥知らずなことと思われた。この術は女祭司に属するとされていた。」
[viii] スノッリの『散文のエッダ』「ギュルヴィたぶらかし」15節を谷口氏の訳で引用しておきます。
「(前略)トネリコの下の泉のそばには美しい館があって、その館の中から、ウルズ、ヴェルザンディ、スクルドという三人の娘たちが出てくる。この娘たちが人間の寿命を決めるのだが、彼女らは運命の女神と呼ばれている。このほかにまだ多くのノルニルがいて、ひとが生れると必ずそこへ寿命を定めに行く。神族もあれば、妖精族も、小人族のものもある。次のようにいわれているとおりだ。
ノルニルは単一の種族にあらずして
さまざまの生れのものなりと
われは思う
アース神族もあれば
妖精族もあり
さらにドヴァリンの娘らもあり
(「ファーヴニルの歌(Fáfnismál)」〔13〕)
すると、ガングレリがいった。
「もし、ノルニルが人々の運命を決めるなら、彼女らはずいぶん不公平な分け方をするものですね。ある者は、よい目にも、よい評判にもありつけない。ある者は長寿なのに、ある者は短命です」
ハールはいった。
「生れのよい善良なノルニルはよい運命を下すのだが、悪い運命に出会う人は悪いノルニルのせいでそうなるのだ」
[ix]北欧青銅器時代、東地中海のイシュタルやアフロディーテのような女神の伝達も考えられる、豊穣女神の偶像もあらわれています。このような豊穣の女神をあらわすとされる像は、イヤリングと二重の首輪のみを身につけ、乳房と性器を強調しています。二重の首輪はこの時代の女神を代表するようになりあmした。グロブは、このような女神への信仰が徐々に男神への信仰を駆逐したものと分析している[ix]。デンマークにおいて青銅器時代は6期に分けられるが、第1期の奉納遺跡には男神への奉納物が圧倒的に多いのに、第2期には早くも40パーセントしかなくなり、第5期から6期にかけては25パーセントから10パーセントへと大きく減少します。また青銅器時代後半の岩絵のモティーフは、女性が大半です。女神はのちのケルト鉄器時代にも熱心に信仰されつづけました。この時代においても、沼沢地が供犠の場として用いられた可能性は高く、犂のような出土品も豊穣祭祀に関係したものかもしれません。だがもっとも印象的な出土物は編んだ頭髪でず。これは女性の豊穣女神への贈り物(シフの髪の物語を思わせる)と見なされています。
古代ローマの著述家、タキトゥスの残した記録(『ゲルマーニア』)によると、ランゴバルディなどスウェービー(Suebi。スウェーデンの名前の祖と考えられます)族に属する河や森に拠る8氏族が共通に崇拝している大地の母(Terram
mater)ネルトゥス(Nerthus)は、「大洋に浮かぶある島の人の手が入らぬ杜におわし、ひとりの神官だけがその杜に隠された聖車に女神が入来したことを告げることができる。来臨した女神は牛に牽かれた聖車に座して巡幸し、彼女が訪れるさきざきでは、祝宴が開かれ、そのあいだ平和と安寧がつづく。死せる定めの人間どもとの交渉に倦み疲れると女神は神所に返され、「あえて信ぜんとするものはすなわち信ぜよ」、女神の神性そのもの(numen
ipsum)さえある湖において洗い清められ、清めをおこなった奴隷は務めが終るとただちに湖に呑みこまれてしまい、そこでの光景は死をもって神に捧げられたその犠牲にしか知られず、神秘的な恐怖と神聖な無知(arcanus
hinc terror sanctaque ignorantia)が生起する」と語られています。
ネルトゥスは、生別の違いにも関わらず、のちの北欧神話の男神ニオルズルと同一視されます。かれらの名前は言語上同一である[ix]だけでなく、ニョルズの息子である男神フレイルに関するのちのアイスランドで記録された物語とタキトゥスの報告との奇妙な相似によってもその関係性が強められています。すなわち、10世紀末のスウェーデンを舞台としたこの物語では、フレイル神はワゴンに乗って巡幸し、かれを世話するのは妻とされる人間の女性です。多くの学者は、ネルトゥスは元来男女一対の夫婦(そしておそらく兄妹)神であったと考えています。ですが、タキトゥスの報告やフレイルの物語を見る限り、むしろネルトゥス祭祀とは、かつての日本の伊勢神宮の女宮の制度のように、神(女神)とその妻(夫)であり最も近しい奉献者、そして代理人である神官とのカップルに対して行われるものであったと考えるべきはないでしょうか。
そうであるとすると、ネルトゥス、二オルズルは、「力」を語源とすると考えられます。フレイルとフレイァは、それぞれ「主」、「女主」を意味します。 フレイル、フレイァの兄妹、二オルズルとその妹との近親相姦的な関係が、現実の信仰に根拠を持つとすれば、この夫婦は元来どちらか一方が「主」である神(女神)であったと考えざるを得ません。タキトゥスの報告と、中世期の物語のどちらがより古い形を伝えているのか、その問題を解く鍵もまた物語の中にあるように思えます。